人間だった頃の己の趣味嗜好――かつて少女依存症だった絵重は、樹矢の嘲りを聞くな否や即座に攻撃に転じていた。
その巨体からは信じられない位に俊敏な速度で以て、地に横たわる樹矢へと接近し、全体重をあてがうように押し潰した。
押し潰した――つもりだったのだが。
「予備動作無しにて瞬時にトップスピードに転ずるその俊敏性……まるでゴキブリの巨大化ですね。見た目は蟹っぽいですけど」
少し離れた位置より 無 傷 の 樹 矢 から声を掛けられ、はっとして絵重は振り向いた。
『ぶくぶく――テメェ……なんで腕と足が治ってやがる』
「さぁ? どうしてでしょうね。自分で考えてみてはいかがでしょうか」
絵重の初撃にて吹き飛ばされた筈の樹矢の四肢並びに、傷口から飛び散り地をべったりと濡らしていた血液は跡形も無く消え去っている。
気を抜いてはいなかった。
格下の存在が故に舐めてはいたが、注意を怠ってはいなかった。
ましてや今の自分は人間だった頃よりも何倍も五感に優れており、軽く押す程度で大抵の生物であれば壊す程度の暴力を有しているのに。
(……固有能力を使ったに違いねぇ)
(でもコイツの【ジャンキーポット】は――たとえレベル2だとしても、あくまで“他プレイヤーの能力の知見を得る”効果しかない筈なのに……)
見誤ったとは考えにくい、そう絵重は思った。
「ひょっとして、反魂玉をまだ持ってたりしたのか?」
煉獄の呪物――反魂玉。
所持者が致命的なダメージ(但し頭部の切断は除く)を負った際、砕け散ることで負傷箇所を含めた全身を全快する事の出来る、第三回戦にて各プレイヤーに配布された救済アイテムの一つ。
この青二才は素知らぬ顔をして、未だ割れてないスペアを隠し持っていたが故の、今ある現状か?
「バカだなぁ絵重先生は。あんな使い勝手の悪い物、余分があっても使う訳ないじゃあないですか」
「壊れるごとに五感のいずれかが著しく弱まる副作用なんて、マイナス以外の何物でもありませんよ」
「ったく。図体はデカくても、脳味噌は縮小してるんじゃないですか。さすが甲殻類、気持ち悪いですねぇ」
『減らず口を……ほざくなッ!!』
激昂した絵重は、樹矢へと三度襲いかかった。
100メートルを1秒に満たない速度で走り抜ける、全身全霊の最高速にて放った右鋏の一撃は、反応すらできずにその場へ佇む樹矢の腹部をいとも簡単に貫通する。
『ハッハッハッハ! 捕えた!!! このままギタギタのグシャグシャに――』
「だから。ワンパターン過ぎるんですってば。少しは学びましょうよ」
『!!?』
完全に殺ったと思われた樹矢の身体が、突 如 と し て 液 状 化 し、その場から消失する。
あまりに勢いよく攻撃を加えたことから、肉と骨と血とがペースト状に混ぜ合わさったかと一瞬絵重は思ったが、その思惑は外れていた。
跳ね飛ぶ橙赤色の液体を被った箇所がブスブスと音を立てながら、彼の屈強な体表面を焦がしていたからである。
『これは……酸かッ!?』
「正確には王水ですかね。濃塩酸と濃硝酸との混合化合物――化け物にも効くみたいで僥倖です」
いつの間にか絵重から少し離れた所に佇みながら、樹矢はそう返す。
そんな両者のやり取りを眺めながら、傍観者の体(てい)である村雨は内心戦慄を覚えていた。
(歴代最強の従獣すらも手玉に取るとは……尋常ではないですね……)
(当事者であったとしても客観的に見たならば、でたらめに思えるかのようなその異常性……)
(これが――これこそが 超 え し 者 の実力――)
規格外具合でいえば、第三回戦終了直前にリタイヤした高低ふるるのレベル0も勿論その分類に入るには違いないにせよ、最後の大罪人である南波樹矢は、ある特異点へと到達していた。
そもそもが固有能力をレベル2にまで引き上げられること自体が稀有だというのに、更にその先の高みへと彼は成り上がってしまったのだから。
前人未到の不可領域――レベル3へと、樹矢の能力は昇華せしめたのである。
「ただ強いだけじゃあ、今の僕には勝てませんよ」
「皇みたく“危機察知に特化した感覚”や、塁のような“攻撃を受ける度に進化する体質”を持っていたのならば、話は別でしょうけど」
「弱い者いじめみたいで気が引けるし、そもそも争いごとは好まないので本意じゃあないのです。ないのです……が」
「殺意を持って向かってくる相手には、それ相応の対応にてお返しをするのが礼儀というものでしょう?」
無から取り出した青紫色の平べったい装置のディスプレイを指先でタップしながら、樹矢は絵重へと語り掛ける。
その最中も引っ切り無しに動き回り、眼を離した隙に移動する樹矢の身体を幾度となく破壊する絵重は、未だ余裕を保てていた。
(ちょびっとだけ皮膚を溶かされて驚きはしたが――ぶくぶくぶく、所詮は軽傷にもならん程度のダメージでしかない)
(瞬間移動か? あるいは身体物質変化?? はたまたそのどちらでもない何らかの効果作用の発現???)
(具体的な能力は分からないにしても、奴が 復 活 出 来 な く な る ま で 殺 し 続 け れ ば 、それで事は足りる――ぶくぶく)
絵重の目論見は、正体不明の能力への不気味さに対する強がりなどではなく、あくまで事象における結果をなぞった判断に起因している。
本来であれば大罪人の固有能力を解析するだけであった樹矢の“ジャンキーポット”から大きく逸脱している現状は、この際どうでも良かった。
相手には己を滅する決定打を持ち合わせてはいない、と。
そ れ が 起 き る 瞬 間 までは、そう思い込んでいた。
『なん、だぁ……?』
急に身動きが取れなくなり、取れなくなった理由を視覚と触覚にて知覚するも、何故こうなったのかが判断できない。
対となる細長い鉄の棒の様な何かが、幾重にも自分の体躯に巻き付いていた。
ぱっと見た所ではそれが何かが分からない絵重であったが、しかしそれが何かを認識するまでにそう時間はかからなかった。
ディティールこそ違えど、記憶を辿れば既知である存在、曰く乗り物の一種。
カタカタと微細する振動及び、雁字搦めとなった始点から伸びた遥か先から木霊する鈍く響いてくる数多の警笛。
絵重太陽が未だ人間だった頃、毎日の様に乗車していたそれは――。
「正確にはリニアからは程遠くて、イメージを実体化させただけだから見た目は貨物的な感じになっちゃいましたけど。さて……」
「接触と同時に先程の何百倍もの量の王水を撒き散らす死の貨物列車群を、これより先生にぶつけます」
「いくらなんでも2万ガロン分もあれば、そのバカでかい身体も跡形も無く溶けちゃいますよねぇ」
『――ぶくぶくぶく。しょうがねぇなぁ、出来ればこの手で八つ裂きにしてやりたかったが、もう終(しま)いだ』
『幸いまだ列車が来るまでには時間があんだろ? ぶくぶく――ぶくぶくぶく、なら予備動作に10秒位かかって無防備になったとしても、問題はねぇ――』
そう言って絵重は、赤黒く変色する体躯の至る所からパチンパチンとラップ音を鳴らし始めた。
『一息吸っただけでも即効で死体に変わる猛毒を広範囲に攪拌する“バブルボブルガムクライシス”ッ! テメェが液体になろうが瞬間的に移動しようが、こいつぁ躱し様がねぇぞ!! ぶくぶくぶくっ!!!』
“バブルボブルガムクライシス”
それは文字通り巨亡蟹と化した絵重の奥の手であった。
周囲5キロ圏内に存命するあらゆる生命体の体組織を破壊する猛毒を瞬時に散布する、防御不能の最終手段。
皮膚に付着するだけで全身の血管が破裂する悪腫瘍を脅威的な速度で発露させる、全滅必死の究極攻法。
発動さえしてしまえば、何人たりとも防ぐ手立ては、凡そ皆無である。
しかし樹矢は耳聡く絵重の放った言葉を脳裏に反芻し、その上で対応策を思いついた。
通常であれば思いついたとしてもそこまでなのだが、あにはからんや今の彼はそれを実行するだけの手段を持ち合わせていた。
「ふーん、無防備ねぇ。えーっと……あっ、これならいけるかも」
手元にある装置をフリックし、目当てであったそれを見つける事の出来た樹矢は、軽く微笑む。
必ず喰らうであろう致死の矛先を向けられて、
「固有能力【シュートロングショート】」
たとえ防御すらが不可能であろうとも、
「――倍速肆乗(ハイメガブースト)」
発 動 す る 前 に 対 象 を 潰 す の で あ れ ば 簡 単 だ な 、と。
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「あっ。しまった、技名を言うタイミングを逃してしまった」
轟々と煙を上げる衝突地点から10キロ程離れた場所へと移動した樹矢は、軽く衣服を払いながら、それとなく呟いた。
「そんなこんなで“デッドレッドレイルロード”、次はあなた目掛けて放って……おっと」
左右より同時に襲い来る斬撃をすんなりと回避しながら、樹矢は振り返る。
「随分と足が速いのですね。流石はあの姉にしてこの弟ありってところかな」
「いくらなんでも10キロを一瞬で駆け抜けられる程の健脚ではありませんよ」
西洋刀の切っ先を地面に向けた下段の構えを取る村雨はそう返す。
「君が今使っている一部の固有能力は、元はと言えばこの私のオリジナルですからね」
「へぇ。現役でなくても行使が出来るなんて、あなたも人の形をしているにはいるけれども、実は人外とか?」
「かつては南波君と同じく大罪人だった私は、当時はその業の深さに絶望したものですが――肉体は変われど魂の在り方はあの時確実に浄化されましたから」
「そうですか。まぁ興味ないのでどうでも良いですけど」
「圧倒的な力を手に入れて全能感に浸るのは思春期ならではの特権だととはいえ。絵重と私を同列に見なすのは賢明ではない、とだけお伝えしておきましょう」
闇よりも暗い漆黒の影を周囲に展開しながら、明確な殺意が樹矢を突き刺さし始める。
「手加減は一切しません。同じ覚醒者のよしみです、直ぐに何も考えられない様にしてあげます」
「それは楽しみです。ならばこちらも諸々の落とし前をつけさせてもらいますね、迦楼羅(かるら)さん」
今は亡き沙羅の弟――西乃迦楼羅の肉体に憑依している存在へと、樹矢は闘志の矛先を向けたのであった。