“欲望の坩堝”即ち固有能力【ジャンキーポット】の使い手である、南波樹矢。
彼が取った行動様式――眼前で繰り広げられている行為は、冥奈の理解の範疇を優に越えていた。
「ぜひゅぅぅぅ…………ぜひゅぅぅぅ…………ん、やっぱりマンガみたいには、うまく行かないもんだな……」
七割が逃走、残す三割が抵抗であるとの腹積もりは大きく的を逸れて、爪を自らの首に突き立て掻き毟るクラスメイトにどう反応するべきかと思案し、足が前に進まない。
「……け、気圧されるとでも思った?」
どもりながらも鋭い視線を投げかける冥奈に対し、樹矢は表立った反応を示さずに、空を仰いだ。
「副作用で触覚を失った。だからって痛覚までは完全に無くならない訳、か。多少マシに違いのだろうけど、加減が効かな過ぎるのも考え物だね」
自らの首に突き立てた五本の指の内、人差し指と薬指の爪は半分以上欠け、その内側よりのぞいたピンク色の肉からはたらりたらりと鮮血が流れ出している。
「って、違う。一体僕は何をやっているんだ、柄にも無く焦っているのか? いや、あるいは無意識の内に自分を罰したいという欲求が……」
ぶつぶつと呟きながら、樹矢は負傷した右手でポケットをまさぐり、煌びやかな橙色の玉を取り出すな否や、
地へと思いきり投げつけ、叩き割った。
「なッ……!?」
「反魂玉を先に割っとかないと、時間がかかるし効率が悪いもんね」
ぺろりと流した血を舐める樹矢を見て、驚愕する冥奈は未だ動けない。
「ふむ。お次は味覚、か」
「ねぇ、ちょっと」
「やれやれ、視覚か聴覚を失えばいっそ楽だと言うのに、いよいよ引きの悪さに嫌気が差すな。あれ、もう一つはどこにやったっけ」
「ッッッ! ――シカトこいてんじゃねぇぞ南波樹矢ァア!!」
罵声とほぼ同時に、冥奈は樹矢の背後へと回り込み、彼の右腕と首を束ねるように締め上げ、耳元で叫んだ。
「何やってんの!? つーか何がやりたいの!?! 意味わかんないからあたしに分かるようちゃんと説明しろ!!!」
アイドルとは思えない剣幕でまくし立てるクラスメイトを尻目に、樹矢は酷く億劫な感じで言葉を返す。
「話し合いは無駄かと尋ねて、薄河さんはそうだと答えた。逃げるか抗うかという選択肢を与えられたが、生憎僕はどちらも選びたくない。だからだよ」
「だからだよ?? つーかバカじゃないのあんた。加減無しに首を掻き毟るとか、はっきり言って異常なのよ」
「あはは、異常者同士だからこそ、ちょっと前まで仲良く出来てたのかも。でもね、薄河さん。これは何も自暴自棄になっている訳じゃあないんだ」
「じゃあなんなの」
「君はさっき西乃さんが兄の仇だと言った。討たれた兄の復讐を果たそうにも禍根しか生まないから考え直せ――なんて、僕は言わないし思わない」
「…………」
「ゲームの参加者同士争うのは必然。勝ち残る反面で敗者が生れるのも当然。幸い、この第三回戦においてプレイヤー同士の争いを禁止とする対戦規則も、無い」
「なんなのよ。何が言いたいのよ」
やや苦しそうに咳き込み、赤い痰が絡んだ唾を吐き出し、樹矢は言う。
「薄河さんには大義名分がある。西乃さんと闘う理由が、確固としてある」
「でも、駄目だ」
「関係ない人を巻き込んだり、必要以上に人を殺すのは、駄目だ」
「……だからって、――」
自害するような真似をしなくても良いじゃないという言葉を言いかけ、冥奈は寸での所で止(とど)まった。
羽交い絞めにして、どのような表情をしているかうかがい知れない元クラスメイト――樹矢を追い詰め最終的に殺そうとしていた己が、かような事は口が裂けても言えないし、矜持から決して言ってはいけないと悟ったからである。
「複製された処刑者を遊び半分で殺していたのも、ひょっとしたらこのゲームが開始する以前に人を殺(あや)めていた過去があったとしても、咎める気はないし、説教するつもりもない」
「単に僕が嫌なだけだ。殺される恐怖よりも、これ以上薄河さんに道を踏み外して欲しくないっていう、僕のエゴだ」
「死んだら終わりなのに、それでもエゴを優先するの」
「案外僕は頑固だからさ。とはいえここで死ぬと西乃さんとした約束を破る事になるし、正直ワンチャン薄河さんが考えを改めてくれるって邪(よこしま)な期待も、ちょっとだけあったりする」
樹矢はそう言って、微かに笑った。
「……呆れた」
観念したかのような表情を浮かべ、冥奈は組んだ腕を離し、樹矢の拘束を解いた。
「もういいよ。なーんかテンション下がっちゃった」
「えっ。僕を殺さないのかい?」
「そうしとく。痛い目見せっちゃってすみませんでした。どこにでも行きなよ」
目を瞑って首を振り、手の平を返す彼女のジェスチャーを見、樹矢は頭を下げる。
「ありがとう。じゃあ僕は行くけど、くれぐれも気を付けてね」
踵を返して沙羅の下へと舞い戻ろうとする背中を眺めながら、冥奈は閉じた双眸を開き、口角を吊り上げた。
(ごめんね、みなみくん)
ふわりと腐葉土が舞い上がった瞬間には、全てが終わっていた。
頸椎部を両断した横一文字の傷口より血飛沫が噴き出し、スプリンクラーの様に冥奈へと降り注ぐ。
どさりと、眼前のクラスメイトが前のめりに倒れる姿を視界に映して。
「あたしって性格悪いからさ、犯(や)らずにはいられないんだ」
ねばつく血のシャワーを一身に浴びて、破綻した復讐者は胡乱な表情を浮かべ、そう呟いた。
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『オイつかさ。分かってるだろうケド、結構オレら追い詰められてるゾ?』
「死に場所を模索し見つからないまま生き続けておる老人に何を言うか」
焼け野原と化した余物樹海の上方空域。
大罪人である央栄士と起爆霊である真韻とが、引っ切り無しに飛び回りながら、言葉を発さずに意思の疎通を行っていた。
「儂は闘争の果てに生涯を終わらすのがささやかな夢でのぅ。滾(たぎ)って迸(ほとばし)って、年甲斐もなくびちゃびちゃじゃわ」
『きめぇからヤメロその表現!?』
会話の内容はフランクだとしても、畢竟(ひっきょう)、士らの現状は芳しくないと言える。
片翼を捥がれ激高した皇は本来あるべき姿へと変貌し、殺意の赴くままに己が有する暴力を一心に注がれている最中が故に。
「ハハハハハッ! サッキ迄ノ威勢ハ何処ヘ消エタカ! 我ガ“福音光閃-リオンレイ-”カラハ逃レラレン!」
目や鼻や耳や口を歪に繋ぎ合わせた巨大な果実かの様な下半身。
腹より上は無数の羽根に覆われ、背より生えるは孔雀の尾を連想させる扇央状の八つの巨翼。
石英(クォーツ)に似た無色透明でいて酷く空虚な開かれた三白眼。
そして最も注視すべきは――皇の周囲に浮かぶ二十余りの掌の群れについてであろうか。
皇を中心とした衛星さながらに一定距離を保ち周回するそれらは、どれもが明滅し引っ切り無しに殺人光線を士へと発射し続けていた。
間隙なく襲い来る弾幕を掻い潜りながら、既に士の反魂玉は二つ破損し、残すは一つ。
「のう真韻や。何やら爆破の威力が落ちている気がするが、儂の思い違いかのう?」
『その認識であってるゼ。玉の呪力を以てしてモ、てめぇのレベル2は生命を削るスピードが速すぎるからナ』
【オールベット】改め【マキシマムバースト】。
残存する大罪人の中において、最も暴に長けた固有能力である。
前者の制約が発動後の17分間に対し、後者に明確なタイムリミットは設けられてはいない。
憑依した真韻が言った通り、術者の生命力を削り――蝋燭の灯火が尽きる迄は何度でも、己が五体を起爆する事が可能であるからだ。
宿敵たる天使との戦闘において、士が能力を駆使するタイミングは、大きく分けて三つあった。
避ける時、攻める時、どうしようも無い時の、三つが。
一つ。肉着を脱ぎ捨て仮初の姿から使徒形態に戻った皇が連発する“福音光閃-リオンレイ-の直撃を回避するべく、移動範囲が広い宙に浮き続ける為に足裏を爆破し続ける。
二つ。網の目程の隙間もない弾幕を潜り抜けて、接近の最中追跡者に浴びせる拳撃の威力を高めるべく、瞬間的に己の肘や踵の部位を爆破する。
三つ。射程内外を問わず敵からの光線が回避不能の際、ダメージを無効化するべく自らを爆破する。
三つ目の場合が最も生命力の消費が大きいとはいえ、しかし常時固有能力を発動し続けている士は、残す反魂玉を加味した上で、無意識に爆破の威力を弱めていた。
期を計り、機を狙うも、対する皇の攻め手は一層激しさを増していく。
相対する追跡者は、変異と共に己の特性を殆ど捨て去っており、士を滅ぼす事のみに傾倒していた。
天獄における序列4位筆頭、憐憫のパィルエルの右腕である皇飯屋――もとい真の名をリュカエルという。
リュカエルには“捨可不可能-アブソリュートアヴォイダンス-”という二つ名が冠されていた。
命名の由縁はすなわち、“極限まで高められた危機察知能力”。
誰もが一度は抱くであろう、「根拠は無いが何やら良からぬ事が起きそうだ」と思い至る虫の知らせを、常に知覚する才能が、皇には生まれながらにして備わっていた。
自身に向けられた脅威や敵意を、脳内に文字化される方向性・回避率・致死率を一瞬早く察知が出来、後は読み取った情報より最も益のある行動を取れば良いだけ。
その特性により彼は、これまでさも未来を予知するかのように振舞って来ていた。
激昂し殺意の権化と成り果てていた皇だったが、しかしここで不意に失い欠けていた其れの指し示す内容を脳裏に感じ、変異後はじめて攻め手が止まる。
【前方より脅威襲来】
【回避率:0% 致死率:89%】
(回避不能ニ、九割近イ致死率ダト?)
皇が顔を上げると、いつの間にやら出現した 途 轍 も な く 巨 大 な 何 か が、宙を覆っていた。
勿論これは質量を伴う正体不明の生物――などではなく、士の暴力の幻影(ヴィジョン)に違いないのだろう。
事実何度か士からの攻撃を受けた際に、奇怪な動物が具現化する様を皇は見取っている。
100メートル程距離を置いている士はからからと笑いながら、握った拳を胸の前で合わせ、静止する皇へと声を掛けた。
「なぁ天使様よ。儂は飽き性なんでなぁ。膠着状態はあんまり好かん」
「最速の殴りも、最速の蹴りも、その分厚い翼に阻まれちまうとなりゃあ、いよいよ奥義を出さにゃあなるまいて」
不自然なまでによく通る声だった。
「騎士道を騙る訳じゃあ無しに、老婆心ながらに忠告やるとのぅ、こ れ よ り の 攻 撃 は 絶 対 に 躱 せ ん ぞ ぇ」
「加えて【マキシマムバースト】の相乗効果で、正直どれほどの威力が出るか分かりゃあせん。下手すりゃ火本国が地図上から無くなってしまうかものぅ」
「下等生物風情ガ。言ウジャナイカ、面白イ――」
けっしてハッタリなどとは違う、恐らく相手は次の一撃で決めるつもりであるらしい。
皇は宙に漂う二十の掌を体内に呼び戻し、迎撃の準備へと取り掛かる。
「虚仮威(こけおど)シデ無ク、全力デ来タトシテモ、私ハ何モカモヲ無ニ帰スノミ!」
今や八つの巨翼は満開の花弁が如く様相を変化させ、収斂(しゅうれん)を繰り返しながら妖しい光を携えていた。
ブリューナクの槍を最大出力で全方位且つ広範囲へばら撒く準備を終えた所で、湿った風が辺りにそよいだ。
「幕を閉じるとしようぞ。最後に立っているのはどちらかのう?」
「無論私ニ決マッテイルダロウ。遊ビハ終ワリダ」
幾ばくかの後、張り詰めた糸がぷっつりと切れるかのような刹那、
両者は己が有する全力を、前方の敵へとほぼ同時に繰り出した。
「巨獣具現之型――京貫、“城不為漆黒鯨”(しろならずくじら)」
「消シ飛ベッ! “ジャベリンスコール”ッッッッ!!!!」
轟音と白光が、見渡す周囲の全てを包み込んだ。