鳴雷(なるかみ)の音がどこか遠くから聞こえてきている。
そう遠くない位置なのか、あるいは意識が白濁としている幻聴なのか、ともかくとして今の彼には定かではない。
あるいはこれが死後の世界なのだろうかと邪推しかけもしたが、頭も体もどうやらまだ起きるのを拒んでいたようであったので、覚醒しかけていた意識をゆっくりと閉じ、彼は改めて深い眠りへと落ちていった。
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自分にはもう何も残っていない。
残された彼女はぽつねんとしたまま、そう思った。
振り返れば双子の兄が爆裂四散してしまってから、埋めようの無い寂しさが常に付いて回っていた気がする。
一度は敵対した年上の彼や彼女に恥を忍んで再び同盟を持ち掛けたものの、年端もゆかぬ自分は向こうからすれば“体の良い保護”でしかなかったのかもしれない。
第三回戦においても自分は、彼と彼女に何も施す事が出来なかった。
全く役に立たなかった。
理解が追い付かないまま昏睡状態に陥り、目覚めた時には既に事は終わっており――彼は帰らぬ人となり、彼女は別の何かに変質していた。
幼いながらも推察するに、どうやらあの才女は途中から入れ替わっていたのではないか、とも考えられる。
【ドッペルアナザー】の詳しい効果を知らないながらも、周囲の認識を歪める事が可能ならば、あるいは術者自身にもそれは適応されるのではないかという、根拠が無いながらも確かであると思い込めるぐらいには、信憑性がありそうな、そんな仮説。
彼女の推察は事実からそう遠くないほぼ正解であったのだが、それを知りながらも当の本人である彼女や自分へと決して伝える事の無かった彼はもういないので、確認のしようがないが故に、残された彼女はこれからどうするべきかに思案を移した。
年上の彼女に成りすましていたあの存在に、つい先程ゲームから降りれるという助言を貰ったことも踏まえて、自分が取るべき道は大きく分けて二つ、ある。
もう間もなくして出現する門を潜り、先へ進むか。
自宅へと帰宅して、全てを無かったことにするか。
どちらが正解なのかは分からないし、どちらも不正解なのかも分からない。
あの存在はむしろ後者を勧めていた様にも感じられるのだけれども、何も残っていない自分が全てを無かったことにして、リセットした後にそれを大きく上回る“幸せ”だとか“生き甲斐”だとかが、果たして本当に訪れるのであろうか。
幼き彼女は、幼き彼女なりに頭をひねって考えるも、どうにもイメージが湧いてこない。
度重なる死の連続に(実質彼女は雷に打たれて一度死んでいる)さらされて、断続的に訪れた状況は既にきれいさっぱり失せているので、安寧な気持ちのまま安堵しているかと自問すれば、けっしてそんなことは無かった。
彼女はとても疲れていた。
高低ふるるは、精神的に酷く衰弱していたのだ。
だからこその第三の道――最も愚かで最も破滅的な手段を、今の自分は取りつつあるのだと思った。
己が固有能力【ファントムホール】にて、首から上を潜らせた後に能力を解除し、絶命するのが一番楽じゃあないのかという考えに至るぐらいには、幼き彼女は病んでしまっていた。
そんな彼女へと、不意に懐かしい声が語り掛けてくる。
『ふるるちゃん。ひさしぶりだね。げんき?』
失った筈の双子の兄の声が、聴こえてくる。
辺りを見回してもその姿は無く、何なら反魂玉破砕のペナルティにより聴覚を著しく失っている現状より、ついに自分はおかしくなってしまったのだと、幼き彼女は訝しんだ。
『ちがうよ、ちがうちがう。たしかにいまのぼくはここにそんざいしていないけど、にくたいはうしなっているけど、まぼろしなんかじゃあないよ』
(ほろろちゃん……どうして……?)
『いまはおおくをおしえてあげられるじかんがないんだ。でもねふるるちゃん。もういいんじゃないかな?』
(もういいって……なにが)
『せいいっぱいがんばったんじゃないかな。もうこれいじょう、むりにつらいめにあうひつようはないんじゃあないかな』
(つらいめ……)
『ひとりぼっちでさみしいんでしょ? だから、またぼくとふたりでいっしょにすごそうよ』
(でもほろろちゃんはもういない……いまだってすがたはみえないじゃない……)
『 こ の じ げ ん に は い な い けど、でも。いまのほろろちゃんなら、ぼくにあいにこれるはずだよ』
(どうやって……?)
『こゆうのうりょくをつかうんだよ、ふるるちゃん。【ファントムホール】の応用――レベル0でなら、僕の座標まで辿り着ける筈だ』
(………………………………)
亡きほろろは、そんな風にふるるへと語り掛けた。
応用・レベル0・僕の座標。
突拍子もない単語ばかり並べられて面喰いかけたが、しかし彼が何を言わんとしているのかは、なんとなく理解が出来た。
理解と同時に、樹にもたれかかったふるるの眼前――つい先ほどまで蛙帰実が立っていた位置に、螺旋状の装柱を伴った門のような何かが浮かび上がっていた。
青と緑が渦巻く奥底は見えないながらも、不思議と嫌な感じはしていない。
(――このさきに、ほろろちゃんがいるかもしれない……)
幼き彼女は、ゆっくりとその身を起こした。
(あいたい……ほろろちゃんとあって……たくさんおはなしがしたい……)
(ひとりぼっちだけど……たよれるのはじぶんだけでこわいけど……けど……)
(それでもあいにいくよ、ほろろちゃん)
決意と共に、高低ふるるは。
その小さき体躯を、門の内側へと飲込ませていった――。
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あの人が僕の事を呼んでいる。
そう彼が感じたのは、微睡から覚める直前であった。
呼ばれた気がして起きたのか、起きてから呼ばれたのかが定かではないといえ、かぶりを振りながら、その少年は立ち上がる。
視線を落とすと、自らの衣服は乾いた血液の黒っぽい赤色に着色されていた。
「首の皮一枚……繋がっていたって訳か」
独白してから、あても無しに歩き始める。
いや、目的地の正確な場所が分からないだけで、今の自分に辿り着くべきゴールというか、目標はあった。
触覚と嗅覚と聴覚を失っていた彼は、端からみれば行き当たりばったりな進路でもって歩みを進めていたのだが、それでも結果として彼は、その目標へと到達した。
「…………西乃さん」
大木を背に預け、殆ど寝そべるようにしながら微動だにしないパートナーの姿を見、少年は呟いた。
彼女を中心に大きな血だまりが広がっている。
安らかなその表情は、どこか眠っている様にも見えるが、それでも。
「あなたは……大丈夫だって言っていたじゃないですか」
語り掛けたところで、返事は無かった。
散乱する天使の残骸や、彼女のかつての師の亡骸も視界には映ってはいたのだが、今の彼にはそこまで状況判断が追い付いていない。
自分がダウンしている間に、大切な人を無くしてしまったという、喪失感が少年の内側を蝕み広がっていく。
「一緒に生き残って、一緒にどこかへ遊びに行こうって、一方的だけど約束してたじゃないですか」
「なのに……なのになんで、しっ……死んじゃってるんですか」
「――勝手に殺すな。私はまだ死んじゃあいないさ」
「ッ!?」
「久しぶり。一時間ちょっと、なのかね。体感的には数年経過するぐらいに、懐かしい感じがするよ」
「……無事だったんですね、西乃さん」
「いや、ぶっちゃけ瀬戸際。もうとっくに死んでてもおかしくはないっていうか――第5部後半のブチャラティ的な状態に近いかもしれないねぇ」
「部茶? えっ、なんですそれは」
「ごめん、平静装ってるけど、むっちゃ寒いし気ぃ抜くとたぶんそのまま落ちちゃうくらいにもう長くないから、一つだけお願い聞いてくれる?」
「お願いですか」
「そう。本来であれば少年に頼むのはお門違いってもんだろうけど」
「この先に待ち構えている存在にきっと私は手を下せない」
「……それはどういう――」
「違和感はあった。確証はまだ持ててないけれど、もしもあいつに対面したならば、私にはどうする事も出来ないんよ、たぶんね」
「だから私の代わりに、全てを終わらせてきて欲しい」
「全てを……終わらせる……」
「嫌なら断ってくれてもいい、そんなことをするまでも無く、少年はゲームクリア―の扱いになるだろうし――お願いを抜きにしたとしても、今とっても嬉しかったりするんよ」
「豚女とバトった際に、少年はたぶん殺されたんだって諦めてたから、今こうやって話せる事が、死ぬほど嬉しい」
「………………」
「なぁ少年。うぅん、最期くらい、いっか」
「なぁ。南波樹矢」
「はい。沙羅さん」
「大好き。今までありがとう」
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そう言い残した後。
今度こそ沙羅が口を開くことは、決してなかった。
別れの言葉に代えた感謝の意を述べられた博愛主義の少年は、果たして――。